このたび、私が翻訳した韓国のグラフィック・ノベル『沸点 ソウル・オン・ザ・ストリート』が「ころから」より刊行されました(クォン・ヨンソク一橋大学准教授に監訳していただきました)。
この作品は、1987年の「6月民主抗争」に至る韓国民主化運動にかかわっていった無名の人々の群像劇です。長く軍部独裁が続いた韓国で、民主主義を求める人々がついに軍部に勝利したのが、この6月民主抗争でした。その先頭を走ったのは学生たちでしたが、最終的にあらゆる層の人々、老若男女が街頭にあふれ出し、路上を埋め尽くしたとき、軍部がついに屈して、韓国に民主主義がよみがえったのです。
『沸点』は、そうした歴史を、一人の学生とその家族を中心に、さまざまな人々の葛藤と模索、そしてその先の小さな飛躍を通じて描いています。主人公は、有名な活動家や政治家ではなく、名もない人々――常に悩み、動揺し、とまどい、足がすくんでしまうような人々です。それぞれがそれぞれの立場で悩み、考え続けます。この作品はそれを、ときに漫画的に大胆に描き、ときにはほとんど直接には語らずに読者に示してみせます。
Ⓒチェ・ギュソク |
そして、そんな人々がついに時代を動かした出来事として、6月民主抗争を語り直しているのです。
作者のチェ・ギュソクは1977年生まれ。漫画的な大胆さと繊細な感性を持ち合わせ、それを支える確かな画力を備えた彼は、今、韓国で最も注目される漫画家の一人です。一昨年、大型スーパーの労働争議を群像劇として描いた『錐(きり)』がベストセラーとなり、さらにこれがドラマ化されてこれもヒット。16年度の放送大賞社会文化部門優秀賞を受賞しました。
『沸点』は、09年に刊行された際、若者を中心に反響を呼びました。それは、この作品が「6月民主抗争」を、先行世代の苦労話ではなく、今の感性で語り直していたからでしょう。保守政権の下で格差が広がる韓国社会を生きる若者たちは、そこに自分たちのための物語を読んだのです。それはつまり、日本に生きる私たちもまた、この作品を自分たちのための物語として読むことができるということです。とくに2016年の状況の中で。
実はこの作品を私が訳したのは、2010年のことでした。仮訳原稿をもって、いくつかの出版社を回りましたが、全く相手にされませんでした。題材が、日本の読者には遠すぎると思われたのでしょう。以来、原稿を机の下にしまいこんでいましたが、昨年の夏、国会前の路上で安保法制反対のデモの人波にもまれながら、「今こそあの作品を日本の読者に届けるべきだ」と思い立ちました。
その後しばらくしてから、「ころから」の木瀬社長に原稿をお渡ししました。翌日すぐに、木瀬さんから電話がありました。「読みました。陳腐な表現だけど、読んでいる間ティッシュが手放せなかった。刊行、ぜひやりましょう!」。少なくとも一人の日本の読者に、この作品が届いたことが分かった瞬間でした。
多くの方に手に取っていただきたいと思います。そしてぜひ、感想を聞かせてください。
加藤直樹